【ブログ】外国人の「アイデンティティの壁」は国家の問題だけではない

私が主催している外国人向けのキャリアカウンセリング勉強会では「外国人が遭遇する5つの壁」というテーマについて、毎回必ず議論します。その5つとは、「言葉の壁」「文化の壁」「制度の壁」「心の壁」そして「アイデンティティの壁」です。はじめの4つについては、比較的イメージしやすいのではないでしょうか。例えば日本語の難しさ、文化の違い、ビザや就職の制度の複雑さ、そして孤独感や焦りといった心の壁など、目に見える問題として想像しやすいものです。

しかし、「アイデンティティの壁」と聞いて、すぐに何か具体的なものを思い浮かべる方は少ないかもしれません。「日系人であることに迷う」「自分は日本人なのか外国人なのか」という話を思い浮かべる人もいるでしょう。それも確かにアイデンティティの問題の一つです。でも、アイデンティティの壁はそれだけではありません。もっと広く、深く、私たちの心に影響を与えるものなのです。

アイデンティティとは何か?

まず、そもそも「アイデンティティ」とは何でしょうか?アメリカの精神科医エリク・H・エリクソンが提唱したこの言葉には、次のような定義があります。

アイデンティティー【identity】
①人格における存在証明または同一性。ある人が一個の人格として時間的・空間的に一貫して存在している認識を持ち、それが他者や共同体からも認められていること。
②ある人や組織が持っている、他者から区別される独自の性質や特徴。

出典:広辞苑

つまり、アイデンティティとは「私はこういう人間だ」という自己認識であり、同時に周囲からも「この人はこういう人だ」と認められることです。皆さんは、自分のことをどんな人物だと思っていますか?そして、周りの人たちは、あなたをどんな人だと思っているでしょうか?

日本の社会と「会社の中で作られるアイデンティティ」

私自身の考えですが、日本社会では「会社の中で」アイデンティティが形成されやすい傾向があると思います。特にメンバーシップ型の働き方が主流である日本では、企業への帰属意識が強く、会社のブランドや理念と自分自身を結びつけて「私はこの会社の人間です」という感覚を持つ人が多いと感じます。肩書きや役職、勤続年数が自分を語る手段になりやすいのです。

しかし、そのアイデンティティは、海外に出た途端にガラガラと崩れ落ちることがあります。これまでの経験や実績、ネットワーク、人間関係…。日本で積み上げてきたものが、海外ではほとんど役に立たず、「白紙」に戻ることがあるのです。これは決して大げさな話ではありません。留学、転職、移住、いずれの場合も、多くの外国人がこの「白紙状態」を経験します。そして、この状態こそが「アイデンティティの喪失」と呼ばれるのです。

私のアイデンティティの「喪失」と「回復」の体験

少し個人的な話になりますが、私も同じ経験をしました。大学卒業後、日本の予備校で3年間働き、学生対応、イベント運営、新規校の立ち上げなど、さまざまな役割を経験してきました。忙しい毎日を乗り越えながら、「自分はこれができる」「こんな経験がある」と少しずつ自信を積み上げていました。しかし、イギリスの大学院に留学したとき、その自信はあっけなく崩れ去りました。英語もうまく話せず、授業についていけず、日本での実績やスキルはほとんど評価されず(話す機会もない)、私はただの「一留学生」としてゼロからのスタートを強いられました。何年もかけて積み重ねたものが、一瞬で無力化された感覚は、今でも忘れられません。

それでも、そんな中で私を救ってくれたのは「コンピュータ操作が得意だった」という、ほんの小さな特技でした。日本で働いていたとき、(他の人がみんな苦手だったからという理由ですが)システム全般を任され、エクセルの関数、マクロやアクセス(データベースソフト)の操作を必死で覚え、簡単なプログラミングも学びました。周りからは「コンピュータのことは田中に」とまで言われるようになりました。そのスキルが、イギリスのクラスメートが困っているときに役立ったのです。そのようなことが続き、少しのことでも誰かに感謝され、頼られる経験が、私のアイデンティティを少しずつ回復させてくれました。

さらにもう一つ、私が小さい頃から続けていた「人を笑顔にすること」も大切な支えになりました。落ち込んでいる友人を励ましたり、困っている人に声をかけたり、ちょっとした冗談を言って笑わせたり。国籍や文化が違っても、人の心に寄り添う力は通じるのだと気づきました。

新しい環境で「拠り所」を見つけ、「新しいアイデンティティ」を作る

今、日本には多くの外国人留学生や働く人がいます。母国を離れ、これまでの人間関係や価値観を手放し、真っ白な状態で日本にやってくる彼らにとって、「自分は何者なのか」という問いはとても大きなテーマです。大切なのは、これまでの経験やスキルの中から「拠り所」を見つけること。どんな小さなことでも構いません。自分が長くやってきて、自然にできることや人に褒められたことなどにヒントがあるかもしれません。例えば、言語学習、料理、ゲーム、音楽、植物を育てること、機械修理…。それが新しい環境での人間関係づくりの糸口になることがあるのです。それは、言葉が通じなかったとしてもです。

ただ、忘れてはいけないのは、「これまでの経験」に頼りすぎてはいけないということ。きっかけにはなりますが、それだけでは十分ではありません。その国、その場所で「新しいアイデンティティ」を作り上げていく必要があります。アイデンティティの形成は、人生全体を通しての課題であり、場所は関係ないのです。海外でのそれは決して簡単なことではありませんが、だからこそ「挑戦する価値がある」のです。新しいことに飛び込み、未知の分野にチャレンジすることで、より強い自信と人間関係が生まれ、未来への可能性が広がっていくのだと思います。

おわりに

つまり支援者として行うことは、「拠り所」と「新しいアイデンティティ」を見つける手助けです。これはカウンセリングだけでなく、キャリア授業などを通して、時間をかけてじっくり重ねていく必要があることは言うまでもありません。

今、もし目の前の相談者が「自分には何もない」と感じていたら、小さなことでいいから「これなら少し得意かもという事はありますか?」と聞いてみてください。少しずつ相談者が自分自身を見つけるきっかけになるかもしれません。